ほぼ日刊ヒトミ通信

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  「反応的」と「主体的」
2017年07月14日 (金)

「致知」7月号のテーマは「師と弟子」でしたが、今週開催した「社内木鶏会」のときにこんな話をさせていただきました。

「反応的」と「主体的」という言葉がありますが、「致知」が毎号繰り返し主張しているのは「主体的」であれということです。「主体的」な人生を歩んだ方々が毎号登場して、ご自身の人生や考え方を述べておられるわけです。

しかし、われら凡人はそう簡単には「主体的」になれない。雨が降ったり、お客様に怒られたりしたら気分が落ち込み、ボーナスもらったり、売り上げが上がったらハイテンション。人間である以上ある意味当たり前ですが、あまり眼前のことに一喜一憂しているようでは、高い目標を達成することはかないません。

そこで登場するのが「師」なんだと思います。「師」だけに「反応的」になることによって、他のことに注意を奪われないようにする。もしくは「師」が与えてくれる「目標」に集中することによって、「主体性」を養っていく。

「致知」や「私の履歴書」に登場する方々は皆そうやって「主体的」な人生を歩んでこられたように感じます(一部女優さんは別として。。。)

そして完全に主体的な人間となったとき、「死の恐怖」さえも超越することができることを教えてくださったのが、先般お亡くなりになったあの女性ではないかと思います。

先般その一部を紹介しましたが、今その全文を読むとき、「飛鳥へ、」の文章を行徳先生が朗読したときの様な大きな感動がありました。謹んで紹介させていただきたいと思います。

<ココから>

2年前、32歳の時に、私は乳癌であることを宣告されました。娘は3歳、息子はまだ1歳でした。

「治療をして癌が治れば、元の自分に戻れるのだから、大丈夫!」と思っていました。

けれど、そんなに簡単ではありませんでした。今も、私の身体は、がんと共にあります。

私は、テレビに出る仕事をしていました。病のイメージをもたれることや弱い姿を見せることには「怖れ」がありました。なので、当時、私は病気を隠すことを選びました。

隠れるように病院へ通い、周囲に知られないよう人との交流を断ち、生活するようになっていきました。

1年8か月、そんな毎日を続けていたある日、緩和ケアの先生の言葉が、私の心を変えてくれました。

「がんの陰に隠れないで!」

私は気がつきました。元の自分に戻りたいと思っていながら、私は、陰の方に陰の方に、望んでいる自分とはかけ離れた自分になってしまっていたことに。

何かの罰で病気になったわけでもないのに、私は自分自身を責め、それまでと同じように生活できないことに、「失格」の烙印を押し、苦しみの陰に隠れ続けていたのです。

それまで私は、全て自分が手をかけないと気が済まなくて、全て全てやるのが母親だと強くこだわっていました。それが私の理想の母親像でした。

けれど、病気になって、全て全てどころか、全くできなくなり、終いには、入院生活で、子供たちと完全に離れてしまいました。

自分の心身を苦しめたまでのこだわりは失ってみると、それほどの犠牲をはたく意味のあるこだわり(理想)ではなかったことに気づきました。

そして家族は、私が彼らのために料理を作れなくても、幼稚園の送り迎えができなくても、私を妻として、母として、以前と同じく、認め、信じ、愛してくれていました。

私は、そんな家族のために、誇らしい妻、強い母でありたいと思いました。

私は、闘病をBlogで公表し、自ら、日向に出る決心をしました。

すると、たくさんの方が共感し、私のために祈ってくれました。

そして、苦しみに向き合い、乗り越えたそれぞれの人生の経験を、(コメント欄を通して)教えてくれました。

私が怖れていた世界は、優しさと愛に溢れていました。

今、100万人以上の読者の方と繋がっています。

人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。

例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。

「まだ34歳の若さで、可哀想に」

「小さな子供を残して、可哀想に」

でしょうか??

私は、そんなふうには思われたくありません。

なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。

私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、

2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。

だから、与えられた時間を、病気の色だけに支配されることは、やめました。

なりたい自分になる。

人生をより色どり豊かなものにするために。

だって、人生は一度きりだから。

<ココまで>

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